自然と人工・・・その3

前回は、「人工は固定、自然とは固定がないことですね」ってとこでした。
よくよく考えれば、、その人の固定観念がフィルターになりカラダやココロをつくってますよね。人は固定観念の固まり、とも言えますね。ワタシ的にはそれが冷え、なんですけど、この文章だって実は書くことでその毒出しをしています。どんどん固まりを緩めて素の、自然体の自分に還る、それが冷え取りと思いますよ。
ジブンが一番正しいって思ってることこそ、実は固まりで執着で毒なんですね。ココロも流れなきゃ淀みますもんね。。固定観念てのは人それぞれあって、その観念があるから判断が生まれるわけでしょ。感情も湧くわけでしょ。そんであの人はおかしい!ダチにはしたくない!あの人は正しい!病気は怖い!なんか思っちゃう。そーゆう固定観念の自分があって判断が出来、情が湧き、コミュニケーションもできる。だからシャバで生きられる。
人は先入観とか固定観念でできてるよね。ゲーテも、「先入観がその人なんだ、それを否定することはその人を破壊することなんだ」、みたいな事言ってる。そこをなんとかしよーとするのが洗心とか言うもんなんでしょうかね。ココロを洗うとか正す、たって流れるココロをどうすんの?!固定してるのは自分のアタマ!って話でしょ。
ワタシ的にはココロを直そうじゃなくて、タオに染まる。タオの割合が多くなればココロも軽くなり、この世的な悩みも和らぐって思いますよ。コトバってのは語・五なんです。だから半分なんです。後の半分はタオ、見えない世界ですよね。うちらはその見えない命で生かされてるわけで、、そこを意識するか否かで自分の中でタオが広がりそこに染まれるみたいね。なのでタオがなきゃ、語・五の半分で生きてるってわけでしょ。だからココロの毒が出来ちゃうわけでしょ。ってもともとうちら、タオでできてるんだけどね。ま、タオっていってるのはここんとこ老子なんか少し読んでるからそう言ってるだけだけど、、ワタシ的にはタオでも自然でも天でも空、でもいいんだけど。
考えるに、、うちらにあるのは固定観念でしょ。でもそれって実在じゃないのいよ。実在は素の今の瞬間の自分しかないみたいね。なのにうちらはコトバの刷り込みでもう固定観念・ものの見方、がこびりついてる。病気、死は怖い、、とか。それが毒をつくるわけでしょ。もっと言えば、それってこの世的コトバのトリックなんですね。
うちらは生まれたときからコトバの刷り込みによって、もう条件反射的に感情が湧く。いくらココロを正そうたって、そこに気づかなきゃダメでしょ。苦しくなるばかりでしょ。言っちゃえば、「ココロを正そうも人間の固定観念」でしょ。ダメなんですよ、コトバがなくなんない限り。でもコトバは神、なんです。もとからあるわけで、、テレパシー、直感、なんかも「見えないコトバ」だしね。なので固定観念を無くそうは間違いなんです。否定じゃダメ、思うに、、すべてが完璧にできててコトバを与えられて、喜怒哀楽が生じ、求めたり反省したりして、うちらは生かされてるんだもん。ここんとこは自問自答である程度、苦しまなきゃぁ、最期までコトバに左右され重く固まるよね。
、、今回の内容はワタシが冷えの根本原因について自問自答し、直観を呼び、ジブンのレベルの固定観念を使って追求してきたことです。年末にシャバの掃除とともにこっちも掃除してみようかと、書きました。この続きはまたこの年末にでも書きます。
コトバやココロを一人で自問自答、、も冷え取りかと。

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