カタカムナの始元量「マ・アマ」、、それがうちら、、ってイヤハヤ(/_;)ど~するぅ~~??

ところでカタカムナ人は、モノとココロを「モノ」として統一した「唯物観」をもっていたそうです。物質も生命も(自然発生する単細胞の藻のようなモヤモヤした存在が伸したもの)であり、アマも物であり、心という精神現象も「モノ」である、、と。
なので、、あくまで自分の考えだけどそれについて「自分のコトバ」で書いてみます。
なんとなくだけど、、ワタシもそう思ってたので、このページを読んで一番に興奮した(カタカムナへの道P152~P156)。確かに自分てのがあるけど、、自分を自覚してるもんて一体何なのか??なんて思うときがある。もち、知識や経験など、固定観念があって物事の判断がつく。固定観念があるからカタカムナなんかを理解でき、それなりに直観も呼べる。だから「我」という固定観念があってこそ進歩があるってわけです。我とはこの世のコトバでもあって、日常のコトバが思念やら経験、トラウマまでもつくる。それがまた良くも悪くも潜在意識にインプットされる。
それが自分てもんなんだけど、、うちらはそれを地球質から宇宙質に塗り替える作業を与えられているんです、きっと。それが苦悩であり、、または直観で天意を知ろうすることであり、、自由自在で生かされてる。すべてがピタっと揃ってて、、うちらは天に染まるゲームをしてる。てかさせられてる。てかこれぞ究極の楽しいゲーム。そんでそれこそが冷え取り(浄化)でもあるんです。
「肉体が死んだら魂だけは残る」、、みたいな事を聞く。反射的に違うんじゃないの??って思っちゃう。簡単にそんなこと言えないし、わからないし、、実際、血中にあるソマチッドは不死身だし。火葬場で焼いても死んでないわけでしょ。うちらは悩は死んでも微生物が分解してるから、微小生物は生きてる。ソマちゃんも生きてる。
またネサンさんや千島教授は血を「液体細胞」と言い、その中の最も小さい微小体がソマチッド。それがうちらのココロにも反応する。それがカラダになる。ってことはカラダ、肉体ってのはうちらに反応するココロがあるってことですよ。だからココロもカラダも全くの同じもん、分けちゃいかんのよ。そんでココロは捕まえにくいもんでしょ、、したら大事にできるのはカラダしかないのよ。だから冷え取ってカラダを大事に、毎日感謝して生きなきゃいかんのよ。
量子的なことはムズイけど、、お釈迦様が「色即是空」って言ったし、カタカムナ人も「物心一元の唯物論」だし、「物質即是意識」。ワタシも、カラダに見えて、、実はカラダは微粒子でココロでもあって、全部が同じもんできていて、ってなんとなく感じてた。したらカタカムナ人は、、それが密度によってモノや見えないアマ界、カム界(無限界)、アラユルモノを創るという。もう、これは究極やね!現代の量子の世界もオクレテルって話でしょ。。
外のキレイな雪景色もそう。一つのカタチに見えて、、それが大変な光や電気や、、瞬間に重なり合いやら、、すさまじい動きで創られては消えて、、その材料がこの空間の間「マ」にあって、、モトは自然発生でアラユルモノができる。。うちらもその一つなわけよ。「我」もあって、そーゆう無限のアマの回転する始元量・マリでもあって、、しかもそれがココロなんだから、、
そうなってくると、、ど~すんの??アンタはなんなの??なんで鬱なんかになってんの??個として自立ってすでにちゃんとした宇宙質の「マリ」でしょ??そんじゃど~生きたらいいんじゃぃ??、、ってな話なんだけど。。
でさ~~、こーゆうことなんじゃぁ、、コトバも「はじめにコトバありき」なわけで、、神様がつくったわけよ、うちらを育てる為に。いい言葉も悪いコトバも固定観念なんよ。ハナッからコトバがあるんだもん。とにかくコトバで思いっきり表現し、使ってナンボ、、そんで痛い思いも経験して、、「アワ・宇宙質」になるんよ。それもぜ~~んぶ、セットされてるしね。もう考えるほど天・点・アマの仕業って思うっきゃないのよ。
んでうちらが生きられるよ~に、、食べもんも自然の中にある。。なのにど~なの?うちらのやってることは??考えなくてもいいことを考えて、ムズくなってる、ってことでしょ。あ~しようこ~しよう、ってやってココロやカラダまでおかしくなっちゃう。。要は、、天意を知ろうと、素人になって、、生きなきゃぁってことでしょ!、、どうあがいてもうちらその中で生かされてる、、素直にまんまでやりたいよーに生きなきゃぁいかん。。けど、、シャバはやっぱムズイ、、だからオモロイ、、イヤハヤ(/_;)

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