森庭の手入れ

雨の合間に庭を手入れしました。

チェンソーで枝を剪定して

ガーデンシュレッダーで枝を粉砕して

チップにして森に戻します

太すぎる枝はとりあえず積んでおく

ついでに木炭を作成

ついでにウッドデッキを補修

森庭がほんの少しすっきりしました

自分の内側と外側の自然

自分はもともと街育ちなので、生まれながらの「山の人」ではありません。ただ、子どもの頃の一時期、山に住んだ経験というのは、やはりどこかにずっと残っているようで、長く都市部で暮らしていても、自然について考える時間がふっと戻ってくることがあります。

私は、自分にとっていちばん身近な自然とは、自分の身体なのではないかと思っています。その意味では、田舎にいても都会にいても、誰もが常に自然と一体でいるとも言えます。

ただ、自分そのものである「身体の自然」と、自分の外側に広がる「山の自然」は、だいぶ違います。

例えば、ここに生えている木々は、私が子どもの頃に見た姿とほとんど変わらず、今もそこに立っています。

石もそうです。小さな石は、いつの間にかどこかへ転がっていってしまったかもしれませんが、昔から見覚えのある大きな石は、何十年も変わらずそこにある。この家が建つよりも前から、きっとそこにあって、今も同じ場所に存在しています。

こちらから石にぶつかってつまずくことはあっても、石のほうからこちらにぶつかってくることはありません。

木に何かしようとして、虫が落ちてきて刺されたり、しなった枝が跳ね返って顔に当たったりすることはあります。けれど、それもこちらが何かをした結果として起こることであって、少なくとも目に見える範囲では、木や石のほうから人間に働きかけようとしてくるわけではありません。

もちろん、地震や豪雨、土砂崩れといった自然災害はまた別の話ですが、それも人間に向けられた意思によって起きているわけではありません。

不可視の世界まで含めれば、また別の話なのかもしれませんが、とりあえず私たちが普段見ている範囲では、山の自然は驚くほどこちらに無関心です。

一方で、人間は人間にとても関心があります。

人が生まれること、消えていくこと、その間をどのように生きていくのかということを、私たちは驚くほど細かく見つめています。そしてそれを文章にしたり、音楽にしたり、映像にしたり、踊ったり、語ったりします。

人間の社会は、人間についての関心で満ちています。

だからこそ、ぽつんと山の自然の中に身を置くと、そうした人間同士の関心から、一瞬離脱するような感覚を味わうことがあります。

怖さもあります。居場所がないような感じもするし、寂しさのようなものもあります。

けれど、それはもしかすると、人間が人間に関心を持ち続ける環境の中に、あまりにも長くいることに慣れてしまったことの反動なのかもしれません。

ずっと飲み続けていたコーヒーを突然やめると、猛烈にコーヒーが飲みたくなるようなものに、少し似ているのかもしれません。

私は、「身体の自然」と「山の自然」とが接する、その境目のようなところにとても興味があります。物理的に言えば、それは皮膚でしょうし、あるいは皮膚のほんの少し外側にある空間なのかもしれません。

その「境界」の感じ方は、都市の中にいるときと山の中にいるときでは、当然ながら変わります。

気温も違えば、空気も違う。聞こえてくる鳥の声の量も違います。山の自然の物量というか、自分を取り巻く環境の量や質そのものが違う。そしてそれは、当たり前のことではありますが、身体の自然にも大きく影響してきます。

自分のこれまでの人生を振り返ると、都会と山の割合は、今のところ7対3くらいでしょうか。まだ都会の成分のほうが多い。ただ、これから少しずつ山の成分が増えていって、最終的には半々、あるいは若干「山多め」の人間になるのかな、という気がしています。

そうなったとき、身体の自然がどのように変わっていくのか。もちろん加齢による変化もあるでしょうが、それもまたひとつの観察対象として楽しみにしています。

私は合気道の稽古を、かれこれ15年ほど続けています。

私が稽古している合気道では、皮膚へのアクセスをとても大切にします。力を込めて相手の身体をつかむのではなく、なるべく皮膚、あるいはその少し外側にある目に見えない何かに、そっと触れるような感覚です。

この感覚と、身体の自然と山の自然との関係には、どこか共通するものがあるように感じています。

皮膚そのもの、そして皮膚の外側にもう一枚あるように感じられる、目には見えない膜のようなもの。その境界を通して、内側と外側が触れ合っている。

合気道では、相手の「身体の自然」と、自分の「身体の自然」が向き合います。そこには相手がいて、自分がいて、互いの身体を通して関係が生まれます。

一方で、山の中に一人で座っているときには、自分の「身体の自然」と「山の自然」が向き合います。

この二つは、どこかで通じているようでもあり、まったく別のもののようでもあります。

どちらも、そこにあるものを感じることが大切だという点では似ています。けれど、合気道では向こう側にも身体があり、こちらの働きかけに応じて関係そのものが変化していきます。それに対して山の自然は、こちらが何を感じ、何を考えているかとは関係なく、そこにあり続けます。

似ているようで、遠く離れている。その不思議な関係に、私は惹かれています。

山の自然の中に身を置く時間が増えていったとき、身体の自然はどう変わっていくのか。

寒さや暑さ、生き物、空気や音といったものを通して、山の自然は身体の自然に絶えず作用しています。ただ、それは人間同士の関係とはまったく違う仕方で起こります。

そんな環境の中で暮らす時間が少しずつ増えていったとき、身体の自然と山の自然、その境界はどのように変化していくのか。

それを見ていくことも、これからの自分にとって、ひとつの楽しみな実験なのだと思っています。




ちなみに、山仕事の後は小諸の街へ降りてのんびりしてきました。

光の回廊をくぐると

そこは小諸なる古城のほとり、懐古園

過剰な夏がおわり、爽やかな日差し

浅間山ってここから結構遠いですが、こんな岩が飛んできたのですね

これどうやって積んだんだろうって毎回思う

不思議レトロな遊園地も

千曲川の見える高台もありました

久しぶりに懐古園を散策したあとは、小諸市街地の喫茶店で一服してツルヤに寄って帰宅しましたー

充実☺

コメントを送る

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です